人事部長からの質問

2003/06/26 45

言っていることは正しいが言い方が悪くて人がついて来ない部長をどう考えるべきか。

難しい問題ですね。チームでやる仕事で人がついてこなくなったらお仕舞いです。だから、何とか手を打たないといけません。しかしながら、言い方が悪い、という場合の多くは感情的にしこりがあって、うまく意思疎通ができないのです。喧嘩両成敗という言葉のとおり、双方の責任に帰すべきだと思います。部長が一方的に悪いと決めつけるのは怖い話です。ちょうど、荒れた教室というときに、先生が荒れさせてしまったのか、どんな先生であっても荒れる生徒たちであったか、いちがいにいえないのと同じです。言い方を気にしない社内風土にしないと、言い方が気に食わねえ、というヤクザのいいがかりを会社が助長してしまうことになりかねません。

文責:清水 佑三

2003/06/25 44

人事部長としてどのくらいの頻度で支店に行くべきでしょうか。

わかりません。何故、支店にゆくのか、そのあたりのコメントがあれば回答のしようがあるのですが・・・。よく社長に就任してから、どれだけの回数、現場をまわって社員との対話に臨んだ、という話をききます。ただの人気とり、大衆迎合路線ではないかと思えてなりません。社長の統治責任をそんなふうに考えられたら(統治を委ねた株主の立場としては)迷惑です。もっとやるべきことがあるのでは、と思います。人事部長も同じだと思います。人事部長のミッションを果たす上で、現場に行くことがどうしても必要だ、という場合を除いて、現場まわりはしなくてよいのでは、と思います。現場のラインを置く意味がなくなってしまう、とさえ思ってしまいます。

文責:清水 佑三

2003/06/24 43

休日に部下たちを自宅に呼ぶ上司についてどう思われますか?

就業時間内において、上司、部下が何をしているか、会社は関心をもつべきです。社会の公器として、管理義務、注意義務を負っているといえます。その時間を離れたら、逆に、管理義務、注意義務を100%放棄すべきだと思います。個人行動保護法案を作って、法律によって(個人行動の自由を)保護すべきだとまで考えています。会社ごときが神聖なる個人の行動に関心をもつべきではないのです。それが個人の思想、信仰の自由の本質ですが、ではなぜオウム真理教は問題になったかがポイントです。社会の安寧を破壊する意図をもった確信犯的な団体が、その思想を実行に移したからです。テロが現実化されたがゆえに、国家権力による介入が許されたわけです。同じ議論が相似形で会社においてもなりたちます。

文責:清水 佑三

2003/06/23 42

商売繁盛祈願で役員、部長が神社に行くことについてどう思いますか。

国の兵として戦陣に赴き、尊い生存権を心ならずも奪われた人たちの霊を、国民の代表が(血税をもって)弔うことの是非と共通します。血を流して独立をかちとった国、歴史上、幾多の侵略に耐えてきた国において、こうした慰霊行事は最優先されています。ちなみにいえば、国家に命を捧げた人たちをもっとも大切にする代表例がアメリカです。その反対が戦後の日本です。国と企業は相似形をしており、政治においてなされている議論と同種同効の議論がそのまま企業内でなされているものです。私は、交通安全と商売繁盛を神仏に祈ることのほかに社長の仕事はない、とまで思っているので、ことごとに社費をもって神社・仏閣に赴き、お払いの祈祷をお願いしております。わがリーダーシップはここにあり、と考えております。Why not?が答えです。

文責:清水 佑三

2003/06/20 41

社長、部長の器といわれる器なるものについて教えてください。

前にも同じようなご質問があったと思います。器は「いれもの」のことです。器である、は社長、部長の任務を果たすことができる潜在的な資質をもっているという意味です。前提として社長、部長の任務の明確化が必要です。たとえば、江戸時代において、江戸には各大名の出先部門がありました。大使館にあたる機能がありました。江戸づめの家老は、まず他の藩の同格の人と対等にやりとりができないと任務の遂行ができません。お国言葉しか話せない、という人は除かれます。また、ご重役にふさわしい威圧感、恰幅がないと幕府や他藩からなめられます。そういうものも器として要求されたと思います。さらに領主が遠国にある場合、突発的な事件への対処能力を求められます。任務をそのように定義すると自然にこの人は江戸づめ家老の器ではない、が導かれるわけです。

文責:清水 佑三