人事改革、各社の試み

HR領域のプロフェッショナルが独自の視点で新聞記事を読み解いたコラムです。元記事のジャンルにより、各社の改革事例紹介である「人事改革事例」編、改革のキーマンに焦点を当てる「ひと」編があります。2008年更新終了。

エン・ジャパン 越智通勝氏
「鬼軍曹」の心で本音ぶつける 意見伝えやすい環境も

2007年11月16日 日経産業新聞 朝刊19面 私の部下育成法

記事概要

 「私の部下育成法」シリーズに、求人サイト大手のエン・ジャパン越智通勝社長が登場した。越智社長は83年に求人広告代理店(日本ブレーンセンター)を創業、95年にインターネット展開に乗り出し、求人サイトを開設。00年にこの事業部門を分離してエン・ジャパンを設立した。越智社長は私の部下育成法として、次のように話した。「三十二歳で独立して会社を設立した。優秀な社員が自然と集まる大企業とは違い、クセのある若者もナマケモノもやってくる。愚連隊を率いるために鬼軍曹になった。ノルマを達成できない部下には『おまえの仕事ぶりには不満だ』と怒った。社員の定着率は低かった。そうしなかったら部下は育たず競争に勝ち残れなかっただろう。」「我が社も社員が一千人を超えて組織が大きくなり、部下育成に悩む管理職も出てきた。悩む人に共通するのは優しいこと。傷つけて部下に辞められては困ると腫れ物に触るように接している。それではダメだ。」「『大善は非情に似たり、小善は大悪に似たり』という好きな言葉がある。優しくするのは簡単だが部下のためにはならない。辞められてしまってもいいから、厳しく指導するようにと言っている。」「もちろん、怒るだけではダメだ。同時に、部下が上司に何でも言える雰囲気を作ることが大切だ。意見を言いやすい上司でいるため、自分も昼休みなど空き時間はなるべく社員とともにいるようにしている。」(聞き手、桜井佑介)

文責:清水 佑三

スパルタ式教育法の現代的意味をさぐる

 通勤途上、地下鉄などの車内広告に求人サイトが目立つ。リクルート、マイコミ、エン・ジャパンの広告が特に目につく。三社が覇権争いでシノギを削っているのがよくわかる。

 爆笑問題を起用したエン・ジャパンの広告コピーは『転職は慎重に』である。この言葉を覚えておられる方は多いだろう。クスリの広告で『クスリはなるべく飲まないように』というのに似ている。

 エン・ジャパンは、求人サイトが信頼され、時価一千億を超えるメジャーになった。ヤフー、グーグルと同じで、企業からの広告掲載料が主要な収益源である。転職(54%)、新卒(12%)、派遣(15%)の三つのサイトで全体の売上の80%を超える。

 自社取材・自社執筆にこだわるのがエン・ジャパンの特徴だ。求人側が用意する原稿をそのまま載せれば、手間は省けるし、広告主と意見が食い違うこともない。しかし、求職側はそれでは満足しない。求職側が求めるのは「現実的で有効な」情報だ。

 「現実的」とは実態に即したの意。「有効な」とは選択に役立つの意。そこには新聞社や雑誌社でいう広告とは独立した「編集権」のような価値意識が必要だ。グーグルがこだわっているユーザーオリエンテッドの検索思想にも共通する。ユーザーにとって価値ある情報を提供すれば、広告は自ずからついてくる、という考え方だ。

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 越智通勝社長が「私の部下育成法」として記事中述べていることは、教育学において「スパルタ教育」として知られた古典的な手法に共通する。

 『プルターク英雄伝』を読むと、スパルタで行われた教育の実態がわかる。

 スパルタでは、子どもは「都市国家スパルタのもの」と定義され親のものではないとされた。生まれた子どもは国家によって「健康でしっかりした子」かどうかテストされ、病身でひ弱な子どもは「生きていても国の為にならない」としてアポテタイの淵に投げ捨てられた。こうした国家主義的な考え方は、民族浄化や優性法を追求したナチスにも通じる。

 子どもが7歳になると軍隊に編入され厳しい共同訓練が課せられる。共同訓練で身につけさせる規律は「命令への絶対服従」「闘ったら必ず勝つ」「どこまでも我慢する」など。ギリシャの冬は寒い。上着の着用を許さず、頭は丸刈りにされる。12歳になると、下着の着用も許されない。スパルタ=拷問教育のイメージはここから来ている。

 サバイバルできる能力を身につけさせる狙いから、意図的に十分な食事を与えず、大人の食事や畑の作物を盗ませたともいう。“007”をつくる学校のようなものか。

 スパルタ教育を広辞苑は「勤倹・尚武をめざした教育法」と説明するが、国家存続のための国民皆兵主義と理解したほうがわかりやすい。スイス、北朝鮮、戦前の日本などの建国、教育思想にも通じるものがある。

 安倍晋三の国家観にもスパルタ的なるものが見られる。

 教育基本法の改正を通して、教育目標に愛国心の植え付けを盛り込み、義務教育、男女共学、週五日制等の見直し、社会奉仕活動の義務化等を(安倍は)提唱した。国民皆兵までゆかないが、国民の「尚武」意識を高めることが念頭にあったことがうかがえる。日本人によるリベンジを恐怖しつづけるアメリカの為政者はどうみていたか。

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 記事で紹介された越智社長の特徴的なフレーズを拾って、解説を試みる。問題意識は、スパルタ式教育法の現代的意味をさぐる、である。

(愚連隊を率いるために鬼軍曹になった)

 ものの喩えで愚連隊という言葉を使っているが、大企業が手にできる「JIS規格新人」とは無縁の会社立ち上げであったといいたかったのだろう。何から何までバラバラの人たちに号令して事をなすには、ハンパなやりかたでは通用しない。鬼軍曹になるしかなかった。

 鬼軍曹とは、自分にも他人にも厳しい叩き上げの人物を指していう言葉で、今はもう死語化している。旧日本陸軍では、理屈に走るインテリ編入者に体罰を繰り返して「軍隊ちゅうもんは」と教えた軍曹クラスが多くいた。

 軍曹は、兵隊の位でいうと、曹長の下、伍長の上。少尉以上の将校(仕官)の下にある位なので、曹長、軍曹、伍長等は下士官と言われた。下士官根性という言葉もある。

(ノルマを達成できない部下には『おまえの仕事ぶりには不満だ』と怒った)

 この言葉で思い出すのは1991年にアル・アレツハウザーが書いた野村證券物語である『ザ・ハウス・オブ・ノムラ』(紀伊国屋書店)である。特に、第3部、第3章「支配への道」で詳細に記述されている「落後者」のくだりが越智語録と重なる。

 ノルマを達成できない営業社員に対して、当時の野村證券の最前線では、いまでいうパワハラがくり返された。自主、自由の高度教育を受けたアングロ・サクソンの目には落後者となった人たちが語った朝礼等のありようはよほど異様に映ったのだろう。野村證券に対して厳しい筆致があった。

 ノルマを達成できない部下に『お前の仕事ぶりは不満だ』と怒ったとしよう。怒られた十人のうち、何人が、やりかたを自分で変えてきてノルマ達成組に入れるか。一人か二人だろう。残りの八、九人は辛い思いをして会社を去る。

 (社員の定着率は低かった)

 軍隊は出入り自由の組織ではない。それだけに鬼軍曹の体罰は(それを受けた側には)きつかったろう。そのあたりは五味川純平の『人間の條件』に詳しい。

 今の会社は軍隊ではない。進退の自由がある。越智社長の「怒り」に触れた社員の多くは辞めてゆく。定着率は低くなる。水が高きから低きに流れるように自然なことだ。

 辞めていった人ではなく、残った人たちに目を転じてみよう。越智さんのあの厳しい一言が自分を根柢から変えさせてくれた、越智さんは自分にとっての生涯の恩人だ。強くそう思う集団が形成される。こういう人たちが越智社長を支え続ける。

 数が少なくとも、継続は力なりとなってゆく。やがて彼らが経験を積み、叡智を磨き、とんでもないヒット事業を生み出す。

 分社化したエン・ジャパンは、そういう過程で生み出されたヒット事業である。越智社長の直弟子が恩返しのようにして生み出したサイト事業だ。創業者一代で大きくなった企業の発展途上期にはこうした物語が多い。定着率が低いが故の恩恵とも言える。

(部下育成に悩む管理職に共通するのは、優しいこと)

 部下育成がうまい管理職は一様ではない。共感性、母性をもつ(優しい)管理職のすべてが、部下育成に悩むかといえばそうではない。

 部下育成に悩む管理職に共通するのは優しいこと、という越智社長の言い分は、彼独自の管理職観とみてよい。自分はそう生きてきた、という意味だ。

 重要なことは、優しいか優しくないかではない。部下からの行動変容を引き出す引き出し方(球種)をどれだけ持っていて、相手によってそれをうまく使い分けられるかどうかだ。打者によって投げる球種を変えられる投手をイメージすればよい。

 一人の管理職にそれを求めるのが難しいなら、異なる部下育成法をもつ多様な管理職群を持てばよい。自由な議論を通して相手からのインスパイアを引き出すアテナイ(アテネ)型の管理職がいて、他方にスパルタ型の管理職がいてよい。その中間も意味がある。要は、上司と部下の(育成)ミスマッチの確率を最少にする人事ができることだ。

 優しさと対話を求める部下にはそれができる上司を、屈辱をバネにしてはい上がろうとするタイプの部下には鬼軍曹をつけるのが原則だ。そうして出来上がってゆくのが、部署のカルチャーである。そのカルチャーが持続することで部署ごとの伝統となる。金太郎飴の反対、ダイバーシティの本義である。

(大善は非情に似たり、小善は大悪に似たり)

 京セラ創業者の稲盛和夫や竹村健一が講演でよく使うフレーズである。記事中にはこの言葉の出典が明記されていないが、江戸時代末期の儒者、林述斎が残した言葉。

 林述斎の弟子には「少にして学べば、則ち壮にして為すことあり、壮にして学べば、則ち老いて衰えず、老いて学べば、則ち死して朽ちず」という名言を残した佐藤一斎がいる。この言葉は、小泉純一郎が衆院本会議の施政方針演説で引いて多くの人の知るところとなった。

 蛮社の獄で渡辺崋山や高野長英ら洋学者を弾圧した鳥居耀蔵は、林述斎の三男にあたる。

 人柄のよいだけのリーダーは「小善は大悪に似たり」となり、膨大な数の屍をつくった信長のようなリーダーは、大善は非情に似たりとなる。スターリンも毛沢東も信長と同じ範疇に入る。オーナー企業のトップは一般にこの林術斎の言葉に反応しやすい。

(怒るだけではダメだ。部下が上司に何でも言える雰囲気を作ることが大切だ)

 このインタビュー記事中の白眉といってよい言葉である。かりに、ノルマを達成できない部下に「おまえの仕事ぶりには不満だ」といい続ける上司がいたとしよう。

 その上司に向かって、部下が本音を返すことができたら、部下にトラウマができるかどうか。できないだろう。本音で怒ることと並行して、怒られた方が本音を上司にぶつけられる雰囲気があればよい。そこではじめて異なる価値意識の葛藤によるダイナミズムが生まれる。

 部下が上司に何でも言える雰囲気を作ることが大切だ、と越智社長が気づいたのは、エン・ジャパンが爆発した03年の暮れ以降ではないか。この時点以降、彼の内面で、貧すれば鈍するの反対の化学反応が起こったのだとみる。非情が大悪にならない細い道を発見した。

 上司と部下が本音をぶつけあって葛藤ができる。その葛藤を相互の努力で乗り越えてゆく。上司道、部下道という何かを想定すれば、そういう図式となる。虎穴に入らずんば虎子を得ず、という意味だ。強い組織はその過程を通して生まれる。

 スパルタ式といわれる教育法がパワハラという批判を逃れる条件は、こうした本音の相互乗り入れがセットになっていることだ。

 越智社長のいうとおり、それは社風、雰囲気の問題だ。職能についての厳しい相互批判と人格の尊重とが共存、両立できる社風、雰囲気を作ることができれば、越智スパルタイズムは、社会の公序良俗に反しない。

 軟弱なる時代における一つの教育の指針たりうる。

コメンテータ:清水 佑三