人事改革、各社の試み
HR領域のプロフェッショナルが独自の視点で新聞記事を読み解いたコラムです。元記事のジャンルにより、各社の改革事例紹介である「人事改革事例」編、改革のキーマンに焦点を当てる「ひと」編があります。2008年更新終了。
日清食品
新任管理職を「山修行」研修
2007年10月3日 日本食糧新聞 朝刊 5面
記事概要
日清食品(東京)は、2003年から「骨太の管理職」を育てたいとして、各地の無人島を探し、そこで新任管理職に(原始的)生活を体験させるなど、ユニークな研修を行ってきた。今年も昨年に引き続き、10月の11〜13日、埼玉県の山中と禅寺にこもり、2泊3日の新任管理職研修を実施する。今年の目玉は約20kmの峠道を一人ずつ分かれて約4時間かけて歩く「夜間行軍」。暗夜、山道を一人で歩くのは誰でも薄気味悪いもの。それに耐えることが求められる。さらに水を浴びる滝行や座禅などの「禅修行」を行う。対象は8月に課長職に登用された19人。こうした研修の狙いは、(新任管理職に)人を率いる仕事をする上で何よりも優先される頑健な体力と強い精神力を身につけてもらうことにある。
文責:清水 佑三
HRプロならこう読む!
研修に「修行」を入れることの意味
コメンテータ:清水 佑三
わずか22行の小さな扱いの記事。上の「概要」は看板に偽りがある。ほぼ全文引用に近い。日本食糧新聞社さんに理解と寛容をお願いしたい。
精神を鍛えるための「修行」を管理職研修に取り入れる意味と価値について、雑感を書いて、今回の稿としたい。
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自分の「修行」経験を書くことからはじめたい。
大学一年の時から修士課程を修了するまでの6年間、裏千家のお茶の先生について茶道を学んだ。「茶道師範として生きようとしている青年」と先生は受け取り、筆者に対して(花嫁修業に来ているお嬢さんたちと区分して)真剣に茶道を教えてくれた。
この6年間のお茶の稽古を通して、茶道的精神を集中して学んだように思う。お茶のお点前の上達によってしか自分の茶道的精神の深まりは確かめられないことがよくわかった。茶道は身体がするもの、と合点した。
同じことを弓道を学んだときにも感じた。不惑を超えるぐらいのときに、思いたって北鎌倉、円覚寺の閻魔堂という弓道場に入門して弓を学んだ。弓もお茶と同じで精神性を大事にする。単に的に何本の矢が突き刺さればよい、という捉え方をしない。道場での弓の稽古は茶道の稽古によく似たものだった。
茶道も弓道も、姿勢、かたち、動きに「秩序美」のようなものを求める。それがどこまで表現できるかで、茶道でいえば「許し状」のレベルが決まる。弓道でいえば段位が与えられる。
茶道、弓道の稽古を通して、精神と形態(表現)が不即不離な関係にあることを知った。精神のレベルをあげるためには、「茶」「弓」「剣」のような自己点検のための媒体を持つことが有効だと知った。こうした自己点検を強いる媒体を持たずに精神修養しようとしても無意味なのだと思う。
精神修養とは何か。不動心をもつことだ。絶対に拒みたい事実を前にして、動揺しない強い気持ちをもち続ける力といおうか。社長業を20年続けてきて、茶道、弓道での稽古で培ったものがプラスに働いていると思うときがままある。
その経験から申し上げれば、日清食品の「修行」路線は正しい。
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「骨太の管理職」を育てるために、日清食品は様々な試みを行ってきたと記事にある。
ここでいう「骨太の管理職」とは、修羅場でしっかりした動きができる管理職のことだろう。ジャンボ機の機長を例にとれば、飛行中、突然、計器ランプが異常を次々と知らせてくる。機体に何かが起こっている。それが何か、冷静沈着に突き止め、一刻も早く、その状況を脱する措置をとらねばならない。大事故を水際で食い止めるために存在するのが機長である。
こういう事態に遭遇したときに、気が動転したらオシマイだ。かかる修羅場で気を動転させない力とは何か。不動心=精神力としかいいようがない。機長にとって最大、最重要な能力は「精神力」といえる。日清食品のいう「骨太の管理職」のイメージを言葉化するとそうなる。
「骨太の管理職」を育てるためにどういうプログラムを用意したらいいか。日清食品は、宗教の三つの修行法に注目した。記事中の言葉を使ってそれぞれに解説を加えてみたい。
(夜間行軍)
この言葉は、夜、軍隊が隊列を組んで行進することをいう。日清食品がプログラム化したのは、それとは違う。歌舞伎の「勧進帳」の弁慶に象徴される修験者、山伏の山岳修行に近い。
山岳修行は修験者(山伏)の専売のように言われているが、必ずしもそうではない。比叡山で行われている山岳修行について書こう。
今なお、比叡山(延暦寺)には、古来からの回峰と呼ばれる修行法が残っている。百日、千日の回峰行があるが、ここでは千日回峰行について述べる。
日清食品の新任管理職研修では、千日回峰の七年間の修行を4時間の峠道歩きに縮めている。求めるものは同じだ。困難な状況下で目的を完遂する体力、気力である。
(滝行)
冷たい滝水につかり浴びることを通して、自らを清め、精神を鍛える苦行の一つである。神道、仏教を問わず滝行は、日本で最もポピュラーな修行法の一つである。次のようにして行う。
滝行のあらまし
滝行経験者は、いずれも“冷たさ”が次第に無感覚になってゆく過程について語る。精神統一、無心、自然との一体感などと無感覚になったときを表現する。また、水行、滝行は、男性よりも女性のファンが多いのが特徴だ。
女人禁制であった身延山(七面山)麓の白糸の滝で最初の水行を行ったのは、徳川三代将軍家光の側室、お万の方ともいわれる。
滝行を通して得られる効用は何か。滝の水の冷たさの思い出であろう。新任管理職になってすぐの研修で「冷たい水を一緒に浴びる」のである。19人はこのときからライバルというより同志となる。
(座禅)
面白い物言いがある。日本の宗教各派を尊敬されている順序にならべると、「禅宗」と「カトリック」がダントツで上位に来るそうだ。
わかるような気がする。その禅宗が修行法の第一に置くのが「座禅」である。静座して精神を集中させる。東洋精神イコール「座禅」とみられるくらいのブランド力がある。
「座禅を科学する」試みは多い。指摘されているのは、高僧の座禅では、普通の人の寝入りばなに出るシータ波という脳波(微弱電流)が出ることだ。
ただし、学術書ではシータ波という言葉は使われない。徐波、瘤波、漣波、紡錘波というように波の形で呼ぶ。シータ波はそのうちの紡錘波をいう。抗不安薬を飲むとその状態があらわれる。ヨガの熟練者においてもその波形が作り出される。
超能力者とされる人たちもシータ波と縁がある。シータ波は何をもたらすか。創造と狂気である。NHK特集の『創造と狂気』では、断食修行を続けると、3日目くらいからこの波形が現れる事実が紹介された。
シータ波のもとでは、定型的な日常の思考回路が遮断されて、夢と同じような支離滅裂な意識の結びつけが行われる。今まで耐えられないと思ったことが何でもないように思えてくる。怖いと思っていたことが怖いと思わなくなる。ふっと面白いアイデアが湧き出る。
わずかな時間の座禅でシータ波が出ることはない。にもかかわらず、座禅は道を見失った人にとって道しるべとなる。打撃の神様と言われた川上哲治も、スランプになったときに、正力松太郎のアドバイスで伊深正眼寺 (岐阜県美濃加茂市)で座禅を組んだ。
座禅はスランプを脱するときに有効なのだ。
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「山岳修行」「滝行」「座禅」のメニューを新任管理職に課す意味は何か。筆者の想像は、どうしてこんなことをやらせるのだろう、といぶかる(受講者の)意識を殺すところにあるとみる。
4時間のバカみたいな「夜間行軍」をやりきると、これがいいとか悪いとかを詮議する自分が蒸発してしまう。終わった、終わってよかった、と思うだけの自分があらわれる。
滝行、座禅についても同じだ。どうしてこんなことを、と思う自分が次第に後ろに引いていって、ひたすら耐えつづける自分があらわれる。終わってよかったとだけ思う自分がいる。意識を殺すことを覚えるのだ。
管理職の立場に立つと、やってられねえ、と思うことの連続である。仕事をするというより、調整という名の「汚物処理業」を強制される側面がある。
自分の意識を殺さないとおかしくなってしまう。自分の意識を殺す修行(経験)が管理職の入り口で必要なのだ。
日清食品の新任管理職研修だけでなく、管理職研修に座禅を取り入れる企業は多い。人気アイテムなのだ。その次に来るのが自衛隊の体験入隊である。
困ったら、ここへもう一度来たらどうか、のメッセージでもある。
大学経営学部でなされる「管理職論」を2泊3日で聞かせたり、成功者を呼んで成功物語を聞くよりもずっとマシな試みだと思う。
管理職になる、は今の時代、針の山を歩くように危険な道行きなのである。意識を殺すスベをもたないと自滅を強いられる。「修行」の効用はそのあたりにある。