人事改革、各社の試み

HR領域のプロフェッショナルが独自の視点で新聞記事を読み解いたコラムです。元記事のジャンルにより、各社の改革事例紹介である「人事改革事例」編、改革のキーマンに焦点を当てる「ひと」編があります。2008年更新終了。

公務員改革
人事制度で政vs官 来年、基本法提出

2007年7月1日 産経新聞 朝刊 3面

記事概要

 「天下りという特権を得ていながら、問題を起こしても責任をとらないのはおかしい。天下りを根絶し、能力主義、実績主義の新しい公務員制度にする。国民から必ず支持をいただけると確信している」周囲にこう語る安倍晋三首相の現行公務員制度への改革意欲はきわめて強い。今回成立をみた関連法が将来目指すのは「よく仕事をする人は採用試験区分や年次に関係なく、給与も高くなる。仕事をしない人は降格や免職もありうる」(渡辺喜美行革担当相)という民間に近い人事制度だ。渡辺担当相はそのためには労働基本権を国家公務員にも一定範囲で認めるべきだとしているが、スト権付与の是非論はかしましい。常識的には、仕事をしない人に対してメスを入れる任命権者側の力を認めれば、その力の乱用をけん制する労働者側の団体交渉権やスト権の付与も認めなければならない。政治家(閣僚、任免者)と官僚(役人、被任免者)との団体交渉がもたらすものは何か、行政学の田中一昭拓大名誉教授は「省庁間の労働環境(処遇)に差が出る」とみる。官が抵抗してストを起こせば、政の本丸の国会はパンクする(自民党中堅)と(官に同調する)政の声もある。「政」対「官」の攻防の行方は不透明だ。(尾崎良樹)

文責:清水 佑三

「格差助長反対」「国力増進賛成」、二つの気質の戦い

 今国会で成立をみた公務員制度改革関連法について、もっぱら国会質疑は公務員対象の人材バンク「官民人材交流センター」に集中し、霞が関の体質にメスを入れる「仕事をしない人を降格や免職にする能力・実績に基づく人事制度の導入」への議論は一向に深まらなかった。

 何故、もっとも議論しなければならない本質的な議論が、立法府でつねに棚上げ、先送りされるのか。損得で考えるとよく分かる。「政」の側にとって、天下りを根絶する人事制度改革は自らの「うまみを奪われる」悪法なのだ。

 そのあたりの関係を簡単にスケッチしてみたい。

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 話は古いが旧防衛施設庁の官製談合がわかりやすい。政治家と天下った元官僚が(血税の)年間総額5千億の防衛施設庁予算を食い物にしてきた構造だ。

 防衛施設庁の官製談合システムは、平成5(1993)年の米軍岩国基地の滑走路移設工事で固まったとされる。米軍や自衛隊施設の建設、設備工事を仕切るのは防衛施設庁の建設部である。

 建設部は大手ゼネコンに対して、自庁OBを受け入れるか、受け入れないか二者択一を迫る。受け入れないゼネコンには工事割当をしない。受け入れを表明したゼネコンには、引き受けOB数に比例して工事割当額を決める。バカみたいに単純だ。

 政治家の登場場面はどこか。基地飛行場移設問題なら、移設先の土地の購入に政治家が絡む。移設予定の土地住民は騒音被害を訴えて反対運動を起こす。売りたい地主はセンセイに絶対に表に出ない形での謝礼を前提に話を持込む。

 センセイは過去表に出なかった施設行政の問題点をとりあげる。国会で問題にする、という一言でよい。国会での議論くらい官僚にとってやな話はない。わかりました、となる。国会で問題にしない見返りにセンセイの「この土地頼むよ」の一言を覚えておく。施設庁は慎重審議の結果、その土地の購入を自発的に決める。施設庁の族議員の誕生である。

 そこまでゆかなくても、地元住民の協力なくしてはやってゆけない施設行政は地元選出の族議員を頼る。貸し借りの関係が生まれる。「政、官、民の癒着」と「官の天下り」は不可分なのである。税金を払っている立場でいえば、こんなバカな話はない。

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 話題を戻す。過去、公務員制度改革の国会議論の中心は「政府がリストラできる経営権をもつ見返りに、労働基本権を公務員に与えることの是非」問題だった。人事制度改革が(暗黙に)想定する大胆な(省庁自身による)自主リストラは、労使による交渉が前提になるからだ。

 改革派の「政」の議論は渡辺喜美行革担当相の「一定範囲で団体交渉権やスト権の付与を認めるべきだ」に集約できる。力の行使に伴うチェック・アンド・バランスの機構化という当然の議論である。

 現状維持(非改革)派の議論は、(連合の利益代理政党は別にして)「公務員がストを決行すれば国会は動かなくなる」に集約できる。この議論には「ブラフ特有の臭気」が漂う。

 公務員がストを決行したときに、それが正当な権利行使か、そうでないかの判断は司法が行って是正すべきものだ。政権政党が自らの存在理由を自ら確立できずに、何から何までを官に依存しているから、「官にストを打たれると国会が立ち行かなくなる」というセリフとなる。本質とは違う議論だ。

 仮に、渡辺喜美行革担当相の「労働基本権を公務員に認める」方向で(国会審議が)進むとしよう。次なる問題は、まさに拓大の田中一昭名誉教授の指摘している光景である。

 省庁間のサイズの自動調整機能の稼動開始だ。市場原理、生産性原理がここで働く。

 旧国公立大学の補助金改革問題で議論されていることが各省庁間で起こりうる。社会貢献ができている大学はサイズがより大きくなり、その反対の大学はサイズがどんどん小さくなる、という図である。

 社会貢献度を測る尺度が定義できれば補助金配分の論理が動く。実際に稼動されるに従って、旧二期校は縮小、廃止に向かい、旧七帝大はハーバードやプリンストンのようにグローバル化してゆく。戯画化して言えばそうなる。かならず「格差助長」反対と「国力増進」賛成という対極の考え方が出てくる。いずれも気質が言語化されたものだ。

 旧国公立大学で起こりうることと同じことが省庁間でも起こりうる。省庁の社会貢献度を測る尺度が定義されれば、国家予算の配分の論理が動く。存在理由が年々希薄していく省庁とそうでない省庁のサイズが自動調整されてゆくのである。

 省庁の垣根を超えた人材流動化が起こる。官・民間での人材流動化も起こる。高給を払える(陽出づる)省庁はますます有能化し、そうでない(陽没する)省庁はますます無能化しやがては消えてゆく。

 ゼロサム的な視点に立てば総体としての公務員人件費は変わらない。そうであってもその人件費が国民の福祉に還元される度合いは劇的に改善されるだろう。箪笥預金がなくなってすべてのお金が何かに活用されて総体のパワーが増えてゆくようなもの。

 渡辺喜美行革担当相の次の言葉が象徴的だ。再出する。

 「よく仕事をする人は採用試験区分や年次に関係なく、給与も高くなる。仕事をしない人は採用試験区分や年次に関係なく、降格や分限(怠業を理由にする)退職もありうる」

 そんなこと、民間では当たり前だ。そうしないと会社がつぶれる。それが国家においてできていないとすればそっちの方が問題だ。国家がつぶれる。

 防衛施設庁も社会保険庁も氷山の一角だろう。例外、特殊だとは誰も思わない。腐った立法、行政の性根を叩きなおすためには蛮勇がいる。安倍晋三首相にそれができるかどうか。

コメンテータ:清水 佑三