人事改革、各社の試み

HR領域のプロフェッショナルが独自の視点で新聞記事を読み解いたコラムです。元記事のジャンルにより、各社の改革事例紹介である「人事改革事例」編、改革のキーマンに焦点を当てる「ひと」編があります。2008年更新終了。

ガンバ大阪
経営のフィジカル強化
勝って動員力向上 −スポーツ新思考 Jリーグ編(5)

2006年6月5日 日経産業新聞 朝刊 21面

記事概要

 昨年、Jリーグ発足以来初の栄冠に輝いたガンバ大阪は、この10年間で劇的な変身を遂げた。変身を主導したのは、松下電器産業の営業担当だった桑原志郎(現常務)である。10年前の1試合あたりの入場者数は、Jリーグ発足時の4割、8000人、累積赤字は発足4年で8億円に達した。当時を振り返って、桑原は述懐する。「Jリーグ人気がはじけ、ガンバ大阪の経営スタッフは何をしていいか分からない状態だった」。(桑原は)次々と手を打った。まず、1億円以上あった応援グッズの在庫処分を決めた。代理店の手にあったチケット販売権を取り戻し、フロント職員を動かして地道に地域の商店街を回らせて関係構築に着手した。苦境のなかでガンバユースへの投資を増やした。ガンバユースは宮本恒靖、稲本潤一、大黒将志らを輩出、ガンバの契約選手32人の半分までをユース出身者で占めるまでになった。ついに今年3月、ガンバ大阪は事業体としての累積赤字を解消することに成功した。(磯貝高行、川上尚志記者による署名記事)

文責:清水 佑三

経営のフィジカル強化、とは言いえて妙

 ガンバユースについて最初に書く。ガンバ大阪の下部組織としてガンバユースが本格的な活動をスタートさせたのは平成4(1992)年である。(その翌年にJリーグがスタートする)

 ガンバユースにはさらに遡れる母体がある。(現日本サッカー協会副会長)釜本邦茂が昭和60(1985)年に創設した「釜本FC」である。

 釜本には、「育成」がすべての原点だという信念がある。そういう人生を歩んだ。

 東京五輪に大学生選手として出場した釜本は、早稲田卒業後、杉山隆一のいる強豪三菱重工に入ると思われた。しかし、彼はその道を選ばなかった。

 昭和41(1966)年、当時の日本リーグで1勝2分け11敗の最下位チームだったヤンマーに入った。

 そのあたりの経緯は昨年9月に産経新聞に連載されたインタビュー「わたしの失敗、釜本邦茂編」(2005年9月27〜30日)に詳しい。次のような記述がある。(一部、読みやすいようになおした)

…三菱に入っていれば、有名な選手は多いし、もっと楽にやれたと思う。自分を鍛えなくても、勝てたかもしれない。でもヤンマーにいたから40歳まで現役を続けられた」

…釜本入団を機に選手強化をすすめたヤンマーは徐々に力をつけ、昭和46(1971)年に日本リーグを初制覇する。ヤンマーは関西サッカーの中心になった。

 釜本の育成に向けた信念が裏切られた話を紹介する。スポーツチーム経営につきまとう話だ。同じ産経新聞の連載インタビューからひく。

…天皇杯優勝の栄誉に輝いた松下電器は、翌年衣替えしてガンバ大阪となった。Jリーグ初年度(1993年)は、前期8位、後期6位。チーム数10の中での成績である。2年目は前、後期とも12チーム中で10位。釜本は解任のような形で監督の座を去った。

…「日本一になったチームを引き受けてこの成績か」当時の批判に対して釜本はいま、語る。

…「サッカーを知らない人はあれこれいうけど、天皇杯はあくまでトーナメントの一発勝負。もともとトップリーグでは22試合で7勝しかできなかったチームだ。それがたまたま天皇杯で優勝した。正直、このメンバーで1年間戦えるわけがないと思っていた。

…チームを若手に切り替えて数年かけて育てていこうと思っていた監督釜本と、早急に結果を求める素人同然のフロントと衝突し、釜本は監督の地位を追われた。

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 記事に戻ろう。サッカーを知らないフロントは、若手育成→チーム力アップ→ファンの増加→収入増という一見迂遠に見える基本的な道筋をとろうとしない。松下電器で経営とは何かを鍛えられた桑原志郎(ガンバ大阪常務)は、次のような手順で事業体としてのガンバを立て直した。

1)ユースへの指導体制を強化した。

 下部チームの充実が上部チームの強さを規定する。幼稚園の年長組から小学校6年生までのジュニアチームに運動神経が優れた子供たちを集めよう。豊中、堺、門真で700名のサッカー少年が「一貫指導体制」のもと、将来のトップチーム入りを夢見て練習に励む。700名を指導する体制を維持するには金がかかる。この金は聖域と考えてカットせず、むしろ強化した。そこから日本を代表する選手が生まれればさらにユースは元気になる。

2)フロント体制を縮小した。

 桑原がガンバに移った年、フロント職員は契約選手数よりも多い35人だった。そのうち、じつに12人が部長以上の肩書きをもっていた。これ以上の頭でっかちはない。桑原はフロント職員を、5年かけ3分の2に減らし、管理職を6割減らした。

3)フロント職員を営業の最前線に。

 「ファンづくりは地道にコツコツやる以外にない」が桑原の考えである。小学生対象のサッカー教室を巡回で開き、参加した小学校の子供たちに家族分を含めてガンバ大阪の試合への無料招待券を配る。この活動をコツコツとやる。無料招待券で来ると次からは有料でも試合を見に来るようになる。次第に入場者数が増える。フロント職員を地域別に分けて、営業担当として地元商店街にゆかせる。チケットを売る、をフロント職員の役割と定義したのだ。代理店に丸投げしてきた時にはなかった緊張感、競争意識が職場に生まれる。

4)不良在庫を一掃した。

 入場者数と応援グッズの売れ行きは比例する。そんな簡単な計算も十分でなかった。売れない、ダンピングして売る、その悪循環がつづく。桑原は決断した。今ある応援グッズの在庫を廃棄して損金処理しよう。一時の赤字は増えるが、ダンピングによるイメージダウンを防げる。入場者数にあった在庫をもとう。ビジネスの世界では当たり前の原則を貫いた。次第にガンバ大阪はブランドとしての地位をもつに至る。

5)4万人プロジェクト。

 ガンバとセレッソの対決を「大阪ダービー」と名づけ、長居スタジアムを満員にするプロジェクトをスタートさせた。前人気をあおるためにはスポーツ紙、スポーツ番組に話題を提供しなければならない。「絶対に負けられない試合」と銘打った前人気づくりに努めた。通天閣を背景にしたこれ以上ないコテコテのポスターをつくり、大阪人の気をひいた。昨年5月の「大阪ダービー」は42000人の観客を集めた。

6)関西4チームの競演へ。

 昨年は願ってもない展開となった。最終節でガンバとセレッソが優勝をかけて戦うことになった。ロスタイム直前にガンバの同点ゴールが決まって、セレッソが泣いた。これ以上ない物語展開である。関西には、大阪2チーム、京都、神戸に各1チームがひしめく。毎年、こうした物語が生まれれば、関西のサッカーファンは盛り上がる。どうしたら関西4チームの底上げが可能か。次なる飛躍のカギはそこにある。一チームの繁栄からリーグの繁栄への視座の転換である。

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 ガンバ大阪再生と中村松下のV字回復は重なって見える。2つに共通するのは、正しいことを正しくやれば道はおのずから拓ける、であろうか。

 ナショナルブランドで売られた石油ファンヒーター事故への松下電器あげての対応はその見本だ。ここまでやる企業はない。

 スポーツ心理学を経営に応用する試みが多く語られるが、心理学でかたづくほど経営は甘くない。釜本の堅固不抜な思想が今ようやく結実しようとしているガンバ大阪に注目すべきだ。

 よい記事に接することができた。お二人の記者に感謝したい。

コメンテータ:清水 佑三