人事改革、各社の試み

HR領域のプロフェッショナルが独自の視点で新聞記事を読み解いたコラムです。元記事のジャンルにより、各社の改革事例紹介である「人事改革事例」編、改革のキーマンに焦点を当てる「ひと」編があります。2008年更新終了。

積水化学
30代前半社員に幹部教育 「管理職になる前に」
仕事から離れ専従

2006年4月3日 日本経済新聞 朝刊 9面

記事概要

 積水化学工業は、今春から、社歴3年以上、35歳未満の対象社員の中から公募、社内推薦等で10人を選別し、「志塾」という名前の幹部教育プログラムをスタートさせる。社長、人事担当常務とともに、10人の選別にあたる神戸大の三品和広教授(経営学)は「米、GEなど19世紀創業の企業も新しい事業の柱を生み続けている。日本の企業も新事業を生み出せるプロの経営者を育てる必要がある」と話す。積水化学の既存事業は、長く、高機能樹脂、住宅、環境・ライフラインの3つで構成され固定化している。第4、第5の柱を育てるためにも「新規事業を発案し、事業化をリードできる人材をもつことが不可欠」(大久保尚武社長)の認識がある。4月末に「志塾生」10名が決まり、5〜7月まで、研修合宿等の準備を行い、8月1日付で10人は正式に現職を外れる。来年の秋までに全員に対して新規事業計画の立案を求め、取締役会に提出させ発表させる。卓越したアイデアを出した者を新規事業推進のリーダーに抜擢し、事業化をめざす。その結果次第で将来の役員候補とする、としている。

文責:清水 佑三

リーダー発見のために既存の管理職教育を使ってはならない

 記事の見出しと内容の乖離についてコメントしておく。「30代前半社員に幹部教育、仕事を離れ専従」というこの記事の見出しを読む限り、管理職前の教育プログラムの紹介に過ぎない。

 記事を読むと印象は一変する。むしろ、会社を蘇生させる未来のリーダーをみつけるための試みの紹介である。なぜそう思うか。記事中のコメントから解説してゆきたい。

・今の中間管理職層からは新規事業立上げ推進者を期待できない

 大久保尚武社長の記事中のコメントにすべてがあろう。「中間管理職になっておらず評価が定まる前の段階で、人材の育成・活用が不可欠」という発言である。この発言とプログラムの中身である1)経営全般を教える、2)現在の仕事から完全に外し、新規事業立上げの設計図づくりを集中して任せる、3)そこから成果が出れば、経営職(役員)に抜擢する、を照らし合わせて読めば、このプログラムが一般的な意味での管理職前教育プログラムではなく、敢えていえばその弊に染まる前段階で、早期救出、早期機会提供を真剣に考えたものだと読める。

・「志塾」は、研修プログラムの名前ではなく、「塾」の名前である

 福沢諭吉に次の言葉がある。「慶応義塾は、単に一所の学塾として自ら甘んずるを得ず、其の目的は我日本国中における気品の泉源、智徳の模範たらんことを期し、之れを実際にしては居家処世立国の本旨を明にして、之を口に云ふのみならず、躬行実践以て全社会の先導者たらんことを欲するものなり」。ここに福沢の慶応義塾の「立志」がみてとれる。「塾」とは、理想の定義であって教育プログラムの集合体につけられた名前ではない。「志塾」には、積水化学工業の四つ目、五つ目の事業の柱の立上げへの意志が強くこめられている。

・「やってみなはれ」といわれて喜ぶタイプの発見が狙い

 小学校から大学までの教育過程を優秀な成績で全うし、「お仕着せ教育」に慣れて会社に入った者が、新規事業を立案せよ、事業化をリードできる案を出せ、といきなりのようにして会社から言われたとしよう。とまどうだけだろう。「お仕着せ教育」に飽き足らず、将来は自分で事業を立上げ、会社を興してみたいと思い思いして生きてきた者は、この機会提供に対して逆に欣喜雀躍する。ここに大きな違いがある。10名の塾生を、現場推薦枠4人、公募応募枠6人としたのは意味がある。新規事業案をもち、自分でそれを立ち上げたいと自ら考える層に賭けているのである。

・プロの経営者とは新規事業を立ち上げ、成功させる者

 中間管理職という場合、中間という言葉に無意識の揶揄が潜む。プロの経営者という言葉にはそれがない。神戸大学の三品和広教授の「将来の柱となる新事業を生みだせるプロの経営者をもつことが喫緊の戦略課題」という認識は積水化学工業だけのものではない。歴史のあるすべての企業において共通していえる。M&Aで事態打開がうまくゆくか、そうでない事例の報告の方が多い。中間管理職とプロの経営者を隔てているものは何か。項を分けて説こう。「志塾生」の合格基準となりうるものだ。

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 (プロの経営者に見られる傾向性)

1)あらゆることに対して「無限の好奇心」がある。

 発明発見家と新しい事業創造者は「今までにないアイデアをもつ」点で共通する。今までにない(有効な)アイデアをもつためには、今までのアイデアを知悉していないとダメだ。囲碁・将棋の世界を考えればわかる。過去の定石・定跡が研究しつくされて後に「新しい定石・定跡」が生まれる。先人は、なぜ、なにを、どうやってきて、今に至っているのかへの尽きせぬ興味・関心が「無限の好奇心」の原点である。それがない人の「アイデア」はただの思いつきだ。ちなみにいえば声がでかい上位者の思いつきほど始末に悪いものはない。

2)目標達成の「意欲」ではなく、理想実現の「意志と情熱」がある。

 中間管理職に求められるのは、与えられたリソースの最大活用である。野球チームの監督の仕事がそれに近い。選手、コーチ、練習設備等はすべて与件として機能する。それをどう活用して最大成果をもたらすかが監督に求められている仕事だ。中間管理職も同じである。「目標達成度」が評価の基準に来るのはそれゆえに合理性をもつ。貧弱なリソースしかない「楽天」の監督引き受け条件に日本一をもってこられても困るのだ。与えられた条件のもとでの目標達成と、まったく何もないなかでの理想実現の「意志と情熱」はまったく趣が異なる。どちらがよいという問題ではない。この違いに敏感であるべきだ。

3)与えられた兵力で勝負しない。「同志を募り、同志に賭ける」。

 積水化学工業の創立者の一人、野崎城之助がもっていたもの、と定義できる。野崎は、戦前、一ツ橋大学を卒業後、日本窒素に入社し、兵役にとられた。北朝鮮からインドネシアのスマトラ島等を転戦した後、復員する。間もなく、昭和22(1947)年3月、日窒時代の同僚6人とともに、それぞれ資金を出し合って、プラスチック成型加工の会社「積水産業」を設立した。これが現在の積水化学グループのスタートとなったといわれる。理想実現の「意志と情熱」を分かちあう同志とともに会社を立ち上げたことに注目すべきだ。同志に対しては「管理」の思想はもてない。お互いを信頼し、知恵と勇気を出し合うだけだ。「志塾」の発意は、野崎城之助への回帰の叫びともとれる。

4)「リスクが最大である道」に成功の可能性を予感する。

 二つの会社(文化放送ブレーン、日本エス・エイチ・エル)を同志とともに立ち上げた経験から申し上げたい。リスクが最大である道を、それぞれの会社で選んできたことが二つの会社の株式公開までの成長につながったと思う。リスクが最大である道とは、失敗によって(自分が)舞台を降りることが一定程度以上予約されている道と言い換えることができる。多くの人はその道を選ぶことにためらいを示す。体を張ってその案に抵抗する者もでる。そういう時に、自分もまた体を張って選択と集中をリードするのがプロの経営者のイメージだ。小泉純一郎にはその資質がある。かれの昨年の郵政民営化解散の決断はまさにそれであった。政敵亀井静香が「衆議院は判定で負けたが参議院はノックアウトだ」は事実をみればサカサマになった。

5)短期的な成功に対してまったく興味がない。「時代の創出に興味」がある。

 織田信長は、個々の戦いよりも、時代の創出に関心があった。平成に入ってから長期間の発掘調査が進められてきて次第に明らかになった安土城とその城下町の構想がそれを語っている。安土城は城の正面に鎌倉の若宮大路のような広い階段状のメインストリートをもっていた。天皇の通路として、行幸時に使うことが想定されていたらしい。城の攻防という点ではまったく無意味。これが短期的な成功基準否定の例だ。そうではなく、信長は安土城の景観を使って、天下万民に「戦いの時代の終焉」を告げるメッセージを送ったとみるべきだろう。信長が時代の創出だけを考えていたことを示す証拠のような話しだ。

6)チームの指揮の要諦は、孫子の「風林火山」だと確信している。

 「孫子」の句「疾(はや)きこと風の如く、徐( しず)かなること林の如く、 侵(おか)し掠(かす)めること火の如く、動かざること山の如し」は、武田信玄ならずとも軍事の要諦である。中間管理職の辞書にはない言葉だ。そこまでの自由度が与えられていないというべきか。第一項の疾きこと風の如く、とはタイミングを最重要基準に置く、の意味。あらゆるプロの経営者はスピードを最重視する。なぜか。タイミングがすべてだからだ。完璧主義者も、慎重論者、省益優先主義者も、タイミングという価値には疎い。料理家はそうではない。「おいしさはいきもの、一瞬」を骨の髄まで知り抜いている。経営施策も料理と同じ。あとの三つについての解説は略す。複雑怪奇で不透明な性格が風林火山の行動を引き出す。外から透けて見える性格はプロの経営者には不向き。

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 積水化学工業の今回の記事は、リーダーを発見し育成する道と、すぐれた中間管理職層を発見し育成する道とは、分けて考えないといけない、という視点と主張をもっている。

 「志塾」の名前にすべてがこめられている。

 小さな記事であるが、とてもよい記事だと思った次第。

コメンテータ:清水 佑三